先日、大洗に住んだ詩人の山村暮鳥の面影を求めて、大洗町の天妃神社、願入寺、水戸八景の「巌船夕照」を訪ねた。
願入寺が見たかったのは、別の理由もあった。アニメの「あしたのジョー」では、ジョーがドサ回りでボクシングの興行をしていて、大洗にも来た。その時、何処で興行を開いたのだろうか。寺や神社の境内か、他に適当な空き地があったのか。
あしたのジョー 第67話 小さな冒険旅行
ボクシングジムの近くの子ども達5人が大洗まで来て、灯台の下でジョーに再会する。
ドサ回りの仮設住居のテントは鳥居の内側にある。
そこで、子ども達はジョーに食事をご馳走になる。
当たりを付けてやって来たマンモス西が、子ども達を仕事用の車に乗せて東京に帰っていく。
ジョーが居たテントは、鳥居があったので願入寺ではない。映像では参道の回りも広いから町で一番大きな磯前神社だろうか。
興行はどこか。
願入寺は町の北の外れだが、那珂川を挟んで海門橋で那珂湊と繋がっているから、客を呼び込むには、アクセスのしやすさでは願入寺の近くの方がいいかもしれない。
願入寺も磯前神社も境内の広さは大したことはないが、現在は駐車場になっている辺りは可能だったかもしれない。
ジョーを慕う小さな子ども達が、やっとの思いで100kmを北上し、ジョーと再会するシーンは懐かしい暖かさがある。
ジョーは頼れる大好きな「兄貴」だ。
一般的な「あしたのジョー」のイメージとは違う貴重な小話だ。ジョーの人間的な味が出ている。これは、漫画の方には無い。
今は少子化の時代で、こういう「兄弟関係」は薄れて分かりにくいかもしれない。
儒教では、人が大事にすべきことは「仁」だという。しかし、さらにその基本は孝悌である。忠と孝の矛盾はよく取り上げられるが、孝と悌の矛盾の方が根本的だということになろう。徳川光圀はまさに、此の矛盾に直面した人だった。
子ども達は、大洗へ冒険旅行に行くが、親の心配などはまるで考えてない。一方、母親達はカンカンである。見かねて西が車を出した。
大洗に大きな灯台は無い。観光案内を見れば、大洗灯台(磯浜灯柱)が見つかる。
此の近くか(津波の後、簡単に近寄れなくなったらしいが)、磯前神社か、あるいは大洗駅前か、ジョーと子ども達のモニュメントはどうかと思い、アニメ関係のしかるべき方に相談したことがある。大いに結構ということだったが、町の方で上手くいかなかった記憶が有る。
私は小豆島で「二十四の瞳」の像を見たことがあるが、あんな感じかな。
あちらは、大石先生で、こちらは力石徹と戦ったジョー。
ジョーに関連したモニュメントの類いは幾つかあるが、実は、ストーリーに繋がるものは東京のボクシングジムの辺りの他は無い。
ストーリーに繋がるもの;
「あしたのジョーのふるさと」「あしたのジョーがいた街」として『いろは会商店街』が横断幕や等身大に近い(実物は見てないので)パネルを設置していたが、現在は分からない。
その中に、丹下段平の台詞が有る。
「ジョーのやつ
さっきまで
そこにいたんだが・・・」
この、「さっきまで/そこにいたんだが・・・」というのが、ふらっとドサ回りに行ってしまったというシチュエーションだとしてみる。
ファンがジョーを追いかけて大洗に来た時には、既にジョーは東京に帰っているとすれば。ジョーが何処かに実在するということになる。
そんな提案だった。