走れメロス

だいぶ前だが、画家の安野光雅さんが「走れメロス」について、「走るなメロス」という一文を、朝日新聞に載せていた。一種の中二病批判ともいえるものだった。

今、ブログを書き始めたので、その時に思ったことを書いておこうと思う。

安野さんは「繪本 平家物語」を書いていて絵だけの人ではない。
物語の理解もあると思っていたが、少々違っていたかもしれない。

走れメロス」は、太宰治の自堕落な生活や最後を取り上げて、読者の中学生や高校生が作品を切り捨てたり、評価を下げる事がある。国語の教師が、一人の人間の多面性や、太宰は本当は「こういうふうに生きたかった」とか補足をする。

しかし、様々な、揶揄、批判に対して、太宰自身は答えを書いている。と思う。
そもそも批評の的が違う。的から外れているのではない。

作品の冒頭は、『メロスは激怒した。』
最後は、『勇者は、ひどく赤面した。』

この作品は、既に赤く熱した鉄の箱に入っている。
その、鉄の箱の中の物語だ。
そもそも現実の冷静な人間関係には接続しない様に出来ている。

メロスは走る。倒れても、地を踏みつけ、その反発の力で立ち上がり、前へと蹴り進む。
最初と最後で塀の様に立ち上がる固い鉄の壁は水平にも地面として繋がっている。
此処でメロスが走るという筋立ちが素晴らしく生きている。

一般には、この小説は友情が主題といわれるが、其れ以上に、主人公メロスが若く、熱い青春を生きている「箱」の中の物語なのだ。だから、メロスは走る力が尽きようとも、友のためではなく己のために、自分が自分であるために走る。
友との約束は、友がいなくなれば、消える。しかし、自分との約束は消えない。

赤く熱した鉄の箱の記憶は、自分が熱を失っても、深い記憶として、自分のために生きる
小さな後押しになるのだと思う。