千と千尋の神隠し

千と千尋の神隠し」のハクとは?

 

渋谷区を流れていた「河骨川」は「春の小川」のモデルとされている。

河骨(コウホネ)が咲いていたので、この名がついた。河骨の地下茎は白い骨の様に見えるというが、節が多くて鱗の様に見えないこともない。

一時の急流で流された幼児が此の地下茎にしがみついて死なずにすんだという話は不自然ではないだろう。

激しい流れで太い地下茎が露わになり、大水が治まったときには再び泥に埋まり分からなくなった。

渋谷という土地の名は「谷」という文字が含まれている。

命名に関わるかどうかは分からないが、起伏があり、田んぼが終わる畦の下に、小川あるいは用水路が隠れて流れている。そんな地形だったのだろう。

小川に降りて遊んでいた小さな子が、親の知らぬうちに大雨の後の大水に流されてしまい、親はずいぶんと探した。しかし、見つからなかった。下流で助かった子どもが、遠回りをして何処からともなくやってきたときに、親は、「神隠し」と言ったかもしれない。

何とか川から上がりきった子どもにとっては、白い竜の尻尾に捕まって助かったという記憶が残ったかもしれない。

川そのものも竜の様だし、河骨はその尻尾ということだ。

「白」い竜は「ハク」である。主人公の過去世の話。「千尋」は「セン」(千)だった。

映画では「琥珀川」という素敵な名前がついている。さすがに、コウホネ川では、物語にはなりにくい。そもそも、アイデアの元をそのまま使うことはない。

過去世と言っても仏教的な意味の強調はない。川が長く存在していて、その神様が長く生き続けるなら、其処に一人の人間をあてがえば、過去世という考え方はうまく合う。

過去世はふわっとした一つの見方であり、後の方に記する。

人が生死を流転し続けるとして、かつての父母が、そのまま今の父母となるわけではない。人には縁があるが、例えば釈尊にしても弟子の提婆達多は、過去世には師だったと云う。此の「千と千尋の神隠し」は千の物語であり、千尋の物語であり、此の一人の人間の一続きの物語である。其の大きな部分は、思い出された「千の物語」である。よって、其処には豚に変えられてしまった現在の父と母はいない。

物語の終わりに、かつて千であった千尋は、今の父母と生きていくのである。

成長の物語。

千尋が、父母が其処にいないことを「見破った」、という面から見れば、これは千尋の成長の物語だということであり、そちらの方が、この映画の主題である。

この映画は多くに人々に贈られた「成長の物語」であり、その土台にある千尋の過去の体験は従である。

琥珀川に溺れたエピソードは、千であった過去世かもしれないし、千尋の幼少期かもしれない。其処はふわっとしていて、判別しなければならないものではないのだろう。

海を渡る鉄道の乗客は、既に死んだ人、過去に生きた人なのかなと思うけれど、そう口に出して言ってしまうと、漏れ落ちてしまうことがあるのではないか。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、主人公ジョバンニの大事な友人が水に落ちて死んだ。鉄道の話としては、この部分で重なる。

水に落ちて死んだことについては「となりのトトロ」で、メイが池に落ちたのではないかと大騒ぎをする場面がある。『銀河鉄道の夜』に対して、おそらく未消化だった場面を、千尋が川で助かったことで決着をつけたのではないか。